小正月とは、元日から7日までを「大正月(おおしょうがつ)」というのに対して、15日を中心にした数日を「小正月(こしょうがつ)」と呼びます。これは旧暦の正月のことで、満月を月の基準にし、15日が年頭に当たるためです。昔の人は満月をめでたいものの象徴としていたようで、この日を月の初めと考えたのでしょう。そしてその小正月に行われている行事のことを「小正月行事」と言います。
小正月には、豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が全国各地で行われていましたが、現在残っている行事は少なくなってきました。小正月行事を大きく分けると、次の三つに分類できます。
豊作祈願----削り花、餅花、まゆ玉、成木責め、庭田植えなど
吉凶占い----粥占い、豆占い、綱引き
悪霊払い----ドンド焼き、左義長、もぐら打ち、鳥追いなど
滋賀県では、小正月行事として 次のような行事が今もおこなわれています。
1月 14日 東近江市五個荘木流町・苗村神社 小豆神事
1月 14日 東近江市北菩提寺・押立神社 御卜田御管焚神事
1月 14日 東近江市布施町・布施神社 粥占神事
1月 14日 大津市三井寺町・長等神社 綱打ち神事
1月 15日 彦根市甲田町・天神社 左義長祭
1月 15日 愛知郡愛荘町・豊満神社 御管卜神事
1月 15日 愛知郡愛荘町岩倉・軽野神社 粥占神事
1月 15日 愛知郡愛荘町北蚊野・軽野神社 粥占神事
1月 15日 東近江市神田町・河桁御河邊神社 粥占神事
1月 15日 東近江市種町・白鳥神社 御管神事
1月 15日 東近江市鋳物師町・竹田神社 占田神事
1月 15日 近江八幡市南津田町・八王子神社 左義長祭
その他、湖北では小正月の神事「おこない」が各地でおこなわれます。
NHK大河ドラマ「平清盛」はじまる
NHK大河ドラマ「平清盛」が始まりました。大河ドラマで平清盛が主人公としてドラマ化されるのは、40年前の昭和47年(1972)に放送された「新・平家物語」以来だそうです。
1月8日の第一回「ふたりの父」で出生から少年期が描かれました。その放送された内容で、清盛の実父は白河法皇で、実母は白河法皇の寵愛を受けていた祇園女御の妹であったということを、NHKが採り上げたことに注目したいと思います。
清盛は白河法皇の落胤であるという説については、『中右記(藤原宗忠の日記)』、『今鏡』、『近江胡宮神社文書』等の幾つかの資料が存在しています。『平家物語』では、白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御(ぎおんのにょうご)が忠盛に下賜されて清盛が生まれたとなっています。
しかしながら、今回の大河ドラマでは、実母は、白河法皇(伊東四朗)の寵愛を受けていた祇園女御(松田聖子)の妹(舞子、吹石一恵)としてストリー化されています。
![]()
これは、脚本家・藤本有紀氏によるオリジナル作品で、同氏が、明治26年(1893)に発見された滋賀県多賀町・胡宮神社に伝わる文書『仏舎利相承系図』にある、祇園女御の妹が母であり、母の死後に姉の祇園女御が猶子(ゆうし)として養育したという説を引用されたからだと想われます。

彦根市の隣町多賀町に現存する文書が、物語の流れを変えるの否か、清盛の人生にどのように影響するのか、1年間、興味をもって楽しみたいと思います。
(胡宮神社まで、当ホテルから車で約15分)
滋賀県立安土城考古博物館で
特別企画展示「清盛の時代と近江」を開催中!
明日1月8日から始まるNHK大河ドラマ「平清盛」に因み、滋賀県立安土城考古博物館では、清盛とその一族、さらに宿敵源頼朝等が活躍した時代の近江の様子を、出土文化財や文献資料の展示を通して紹介しています。
■展示の内容 博物館内の3カ所にコーナーを設けて、清盛の時代の近江を紹介します。
第1コーナー 「都を支えた近江の物流」(展示文化財数…23点)
清盛の時代、東国・東海・北陸の物資情報のほとんどが琵琶湖の船運を利用して都に運ばれていました。清盛は琵琶湖船運を重要視したことは、日本海と琵琶湖を直接結ぶ運河を開削しようとしたことからも窺うことができます。
このコーナーでは、清盛の琵琶湖運河計画を紹介すると共に、運河の起点となった塩津港遺跡、物資の陸揚げ港であった大津坂本の様子、さらには瀬田川を介して清盛の日宋貿易による文物が豊富にもたらされた、大津市関津遺跡の様子を出土文化財を通して紹介します。
第2コーナー 「姿を見せた神の庭」(展示文化財数…15点)
近江は、名勝に指定された庭園の数が京都に次ぐ「庭園美」の国でもあります。近年の発掘調査により清盛の時代の庭園が3カ所(野洲市:二之宮神社庭園、野洲市:兵主神社庭園、高島市:池ノ沢庭園)発見されました。平安時代まで遡る庭園で、その全容がわかるものは全国的にも少なく、庭園史上貴重な存在として評価されています。
特に、当時は末法思想を受けた浄土庭園が造園の中心でしたが、近江で見つかった清盛の時代の庭園はいずれも、水に対する神祀りのための空間として造園されたもので、「水の国近江」の伝統の深さを示すものとして、興味深い文化財です。
第3コーナー 「もののふ」活躍の時代 (展示文化財数…6点)
清盛の時代は武士(もののふ)が歴史の主役として躍り出た時代です。このコーナーでは、平家を始め、奥州藤原氏、近江守護となる佐々木氏の動向を示す文献資料や、武蔵坊弁慶が関係したと伝えられる経典を展示しています。
また、当館がテーマとしている「織田信長」に関し、武家政権が源平交替で掌握するという、当時の思想を反映して造られた「織田氏系譜」も、清盛と近江の関係を示す資料として展示しています。
■会期 2012年1月5日(木)〜3月31日(土)
■時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
■場所 滋賀県立安土城考古博物館 第1・2常設展示室
■休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)
■入館料 大人450円・高大生250円 小中生および障害のある方、県内在住の65歳以上の方は無料
●問合せ 滋賀県立安土城考古博物館 近江八幡市安土町下豊浦6678
TEL:0748-46-2424/FAX: 0748-46-6140
(滋賀県立安土城考古博物館まで、当ホテルから車で約25分)
彦根城博物館で
新春のテーマ展「新年の寿(ことほ)ぎ−松竹梅−」が開催中!
冬でも落葉せずに緑を保つ松、まっすぐに伸びて年中瑞々しい緑を絶やさない竹、極寒の中でも百花に先駆けて香り高く咲く梅は、寒い時期に耐える「歳寒の三友」という考えをルーツに、吉祥の画題となり、長寿、子孫繁栄、節操を象徴する縁起のいい文様としてそれぞれ用いられてきました。
彦根藩主・井伊家第十三代当主・直弼の娘、弥千代(やちよ)姫が高松藩松平家に嫁いだ際に持参した茶道具一式の「黒漆塗葵橘紋松竹梅蒔絵茶弁当」のほか、「金梨地橘紋松竹梅蒔絵刀箱」、能の世界で神聖視される演目「翁(おきな)」の翁狩衣など美術工芸品にあらわされた松竹梅のデザインを20点展示しています。

めでたい調度品を愛でに彦根城へ初登はいかがでしょうか。
■会期 2012年1月1日(日・祝)〜1月31日(火)
■時間 8:30〜17:00(入館は16:30まで)
■場所 彦根城博物館(滋賀県彦根市金亀町一番一号)
■休館日 会期中無休
■料金 一般500円 小・中学生250円
●問合せ 彦根城博物館 TEL:0749-22-6100/FAX:0749-22-6520
(彦根城博物館まで、当ホテルから車で約10分)
むかし、近江の国余呉の湖に、織女たなばたの下りて、
水あみけるに桐畑太夫という男ありて、
ぬぎ置きたる天衣をとりてたわむれば、織女天へのぼることを得ず。
やがて、その男の妻になりて居給いけり。
子ども生みて、年を経たけれど、天上へのぼらん、こころざしを失わずして
常に天衣をのみ気にかけおれり。
此の男他へまかりたるのに、
その間に、この子父のかくし置きたる天衣を取りて、母にあたへければ、
女よろこびて、それをきて飛び上がりにけり。
そのとき、この子に契りたることは、我はかかる身にてあれば、
おぼろにては、あふまじ七月七日ここに下りて、この湖の水を浴ぶべし、
その日にならば、あい待つべしとて、わかれの涙を流しける。
さてその子孫、今も有りなんと申し伝えたり。
昭和55年ふるさと近江伝承文化叢書 余呉町教育委員会編集発行「余呉の民話」より
17世紀初め、イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイが、自分で作った望遠鏡で天の川を眺めたところ、天の川はたくさんの星の集まりであることがわかりました。ガリレオの発見からおよそ150年後、イギリスの天文学者ウイリアム・ハーシェルは、丹念に星を数えてその散らばり方を調べました。その結果、星は円盤状に集まって星雲を作っているとの結論に至りました。ハーシェルは、目で見える星だけしか数えられませんでした。遠すぎて見えない星などを数えていないため、ハーシェルが数えた星々はほんの一部でしかなかったのです。
その後、天文学者の努力と望遠鏡の進歩によって、遠くの星々まで見ることができるようになりました。
そして、天の川の正体が星の大集団である「銀河」を内側から見た姿であることが明らかになってきたのです。宇宙には、たくさんの銀河があります。有名なものとして、アンドロメダ銀河、ソンブレロ銀河などがあげられます。私たちの太陽系のある銀河は、他の銀河と区別するために、天の川銀河または銀河系とも呼ばれています。
国立天文台では2001年から、「新暦7月7日は梅雨のさなかでなかなか星が見られない」という理由で、旧暦7月7日を「伝統的七夕」と呼び、その日の太陽暦での日付を広く報じ、国立天文台のある三鷹市では、この日ライトダウンを奨励し、可能な限り七夕の夜空を楽しむ機会作りをしています。因みに旧暦の七夕は、今年は8月26日にあたります。8月中旬から下旬にかけて空の澄んだ日も多く、月はすべて上弦の月の頃で、ちょうど船の形をした月がお目当ての牽牛(アルタイル)と織女(ベガ)の間を取り持つように沈んでいくのが見ることができます。また、今年の7月7日はちょうど満月に当たり、月明かりに邪魔されて、たとえ晴れても天の川は見にくくなってしまいます。
さらに最近では、携帯電話、テレビ、衛星、空港のレーダーなどにより作り出される電波の氾濫により、クエーサーやパルサー、ブラックホール、宇宙マイクロ波背景放射などの繊細な観測がひじょうに困難になってきているそうです。
七夕は、7月6日の夜から7月7日の朝へかけての行事で、翌日(7月8日)の朝には、祭りに使った笹竹や飾りなどを川や海に流して穢れを祓う「七夕流し」や「七夕送り」を行います。
昔は棚機津女が水辺の機屋に女性がこもって、棚に機で織った衣服を供えて6日の夜に神を迎えて祭り、迎えた神を送る8日の朝には、七夕飾りを川や海に流して送り出します。これに来臨した神が翌日帰るさいに穢れを持ち去ってくれるという考えが加わり、禊(みそぎ)をして神に託しました。この川で禊をする、身を清める習慣が「七夕流し」、「七夕送り」となりました。また、飾りの笹などを川や海に流すのは、お盆に祖先の霊を迎えるための『お祓い』の行事でもあったようです。
また地方によっては、七夕が終わると、七夕飾りを畑に持っていって立てるところもあります。こうすると、「畑に虫が寄ってこない」とか「すずめおどし」になるとか言われています。虫払いを行なう風習もあり、「七夕送り」と同様の祓いの行事です。
「七夕流し」や「七夕送り」の行事は、今でも全国各地で盛んに行われていますが、特に水に関する行事が多く残っています。「7回水を浴び、7回親を拝む」や「7回水を浴び、7回赤飯を食べる」、行水する、洗髪する、牛馬を洗う、食器を洗う、墓掃除をする、井戸さらいをする、川・池さらいをするといったことは、水によって穢れや厄災を払おうとする風習も生まれたものと思われます。さらにこれがお盆の前に穢れを祓い清める禊の変容した伝承である行事としての色彩も持つようになって、今日に至っていると思われる。それも、7月(新暦)にする所と8月(旧暦)にする所の2通りあります。
京都では、貴船神社の水まつりや北野天満宮の御手洗祭など。東北の夏祭りとして有名な「ねぶた祭」(青森)、「ねぷた祭」(弘前)も、もともと水によるみそぎで行っていた七夕の行事でした。これが坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際に人形を川に流した伝説に結びついて、今日のような街をねり歩く「ねぶた祭」となったのです。「ねぶた」とは“睡魔”のことで、人形は睡魔の象徴といわれ、夏場に人々を襲う睡魔祓いと禊の意味で、音の似かよった「ねむの木」に託し、川に流して送り出すという行事で、これもやはり「水」にかかわる行事の一種と云えます。水浴びのことを「ねむり流し」とか「ねぶた流し」とも言いました。
日本各地を見回してみると、このような形の七夕とは異なった形や風習で行なわれている七夕まつりも数々見受けられます。宗教的なものと農耕儀礼的なもの、それと、神事的なものや土着儀礼的なものが混ぜ合わさりさまざまな形態が見られます。
ヒトガタにキュウリや茄子をつけて海に流す「厄払い」の意味合いがより強い行事、「たなばたさま=田の神様」という形で七夕さまに託したという「虫送り」、「熱送り」、「雨ごい」の行事‥‥等々。
暦には、1年の長さを太陽の動きによって決める「太陽暦」と、1月の長さを月の動きによって決める「太陰暦」とがあります。また、太陰暦でも1月の長さを月の動きによって決め、1年の長さを太陽の動きに調整する暦を「太陽太陰暦」と称しています。日本では、明治5年までは「太陽太陰暦」を使用していました。これを一般に「旧暦」と言い、明治5年の改暦以降使用されている太陽暦を「新暦」と言っています。
明治5年旧12月3日を明治6年(1873)1月1日と太陽暦に改暦した時、旧暦で行われていた各種年中行事を、旧暦の日付をそのままにして西暦の日付に置き換えて行うようになって、多くの年中行事は混乱を極め重大な問題となりました。その結果、太陰太陽暦は太陽暦に比べ1ヵ月ほどずれているので、元旦や桃の節句、端午の節句、七夕など、季節よりも日付を重要視されるモノはそのまま同じ日付に行事を行い、お盆のように時期が重要視される行事は1ヵ月遅れることになったのです。いわゆる「月遅れ」が考え出されました。しかし、旧暦をほとんど知らない世代になって、太陽暦と、旧暦と月遅れの混同がおこり、さらに混乱させることになりました。
古代中国から伝わった七夕は、織女(しゅくじょ)と牽牛(けんぎゅう)がこの日だけ「天の川」をはさみ会うことが許されたという「星伝説」と、裁縫が上手になることを願って織女に供え物をする「乞巧奠(きこうでん)」の風習です。この二つに、日本古来の「棚機女」が結びついて(中国と日本の習慣の融合)七夕の習慣ができあがったと云われています。
日本の七夕は、「稲が開花期に入り、害虫や風災害に気をつけるように」という注意とともに、身を清めて先祖の霊を迎える準備を行う大切な日でもありました。「棚機女(たなばたつめ)」というのは、豊作をもたらす神様の神衣を機屋で織る乙女のことです。これが「たなばた」の名の由来になっています。そして、七夕の行事は、お盆(旧暦なので7月15日)に神様が着る服を織るために、川原など水の流れている場所で巫女がはたを織るという神事だったようです。そうするとことで悪いものを持ち去ってもらおうとしたのです。このように、七夕には「盆前」の「禊(みそぎ)」の意味もあります。短冊に願い事を書くのは、「乞巧奠(きこうでん)」からで、その短冊や笹竹を川に流すのは「禊」からきたものだと考えられているようです。
これらのように、本来旧暦で行われていた七夕行事が、日付をそのまま太陽暦に置き換えて行うことによって、本来の意味あいが失われてしまうことがありますので、近年、季節感が合う1ヵ月後の8月7日に七夕まつりを行う地域が増えてきたのです。代表的なところで、新暦の「平塚の七夕」、月遅れの「仙台七夕」などが有名ですが、ここ彦根でも、彦根市内中心部で行われる七夕まつりは8月(〜8日)に行われています。
米原市の七夕行事も、新暦で8月に、地元の人たちが天野川両岸に星のイルミネーションを作り、世継地区と朝妻地区の両地区の交流と新しいまちづくりが進められています。
7月7日は、五節句のひとつ「七夕の節句」で有名ですが、二十四節気では、夏至から15日目を「小暑(しょうしょ)」といいます。暑さが次第に増す頃という意味で、いよいよ本格的な夏を迎えます。
二十四節気を細かくした七十二候は、小暑の期間を3つに分けて、
・温風至(おんぷういたる)・・梅雨末期のこの時期は、盛夏を思わせる暖い風が吹き始め、ところによっては集中豪雨が起きやすく注意が必要です。梅雨明けも近く、梅雨の晴れ間には、いよいよ夏らしさが感じられるようになります。
・蓮始開(はすはじめてはなさく)・・ 蓮の花が開き始めます。
・鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす)・・鷹の幼鳥が飛ぶことを覚えはじめます。
「暑中」とは夏の暑い間のことですが、特に土用の18日間をいいます。夏の土用とは、小暑から13日目の19日頃から立秋の前日8月6日頃までのことです。この期間に「暑中見舞い」を出します。立秋を過ぎて出す時は「残暑見舞い」とします。
「小暑(しょうしょ)」のあとの二十四節気は「大暑(たいしょ)」で7月23日です。
明日7月7日は、五節句のひとつ「七夕の節句」です。
七夕、七月七日の夜、織女・牽牛のニ神が降臨し、そして翌日には天空に帰っていきます。そのときに「禊(みそぎ)」を行って、穢れを持ち去ってもらうといった考え方なのです。この時、笹竹を立てて、五色の短冊に歌や字が上達するように季習い文字を飾りました。 笹竹に人形を結んで、人形に託して穢れを持ち去ってもらい笹竹ごと、川や海に流す習慣も生まれました。このことを、「七夕送り」「七夕流し」と呼びました。
地方によっては、七夕に素麺(そうめん)を食べる習慣のあるところもあるそうです。流し素麺は、素麺の一本一本が「織り糸」、流れいくさまが「天の川」を表しているといわれます。また、七夕流し同様に、穢れや疫病を水に流すといった信仰も背景にあるからともいわれています。
このように、庶民の間の七夕は、宮中の行事とは別に独自の発展を遂げてきました。
一日だけの風情ある「七夕の節句」は、日本独特の風習で伝統文化と云えます。
